本書は
北杜夫(1927-2011)による
斎藤茂吉(1882-1953)評伝四部作の
第4作『茂吉晩年』
副題:「白き山」「つきかげ」時代
(岩波現代文庫 2001)
です。単行本は同じ岩波書店から
1998年3月に刊行されています。
ここに茂吉評伝四部作完結です。
本書は2つの章から成り
Ⅰ 「小園」「白き山」時代
Ⅱ 「つきかげ」時代
です。従って副題とは異なり
歌集「小園」(しょうえん)の時代も
含まれています。
具体的には
米軍による空襲が激しくなり
昭和20(1945)年3月
茂吉が山形に疎開、そこで敗戦。
戦後、東京に戻り
昭和28(1953)年2月25日、
亡くなり
翌2月26日、東大病理学教室で
御遺体が解剖された
ところまでを描いています。
斎藤茂吉の評伝は複数ありますが
この四部作は
2つの理由で北杜夫でなければ
書けなかったと考えています。
1つには
北杜夫にとって父・斎藤茂吉は
文学上「超えられない壁」であったから
という理由です。
もう1つには
四部作の記述スタイルが
茂吉の歌
既存の評伝や解説書からの引用
茂吉の手紙や日記からの引用
自分の日記からの引用
既に出版された自分の本からの引用
当時の自分の内面についての回想
それらをひっくるめて今の自分の感慨
特に父の享年に近づき・超える
自己の心身の加齢と老年の実感
‥が、あたかも「地層」のように
多層から成る「層」を成しているからです。
司馬遼太郎(1923-1996)が
自分の文学を「鳥瞰的」「俯瞰的」と
呼んだことは有名です。
(外交の世界で「俯瞰的」は意味不明です。
そもそも明確に定義されていない概念を
雰囲気で使用するのはご法度です)
司馬は大量の資料を読み込み
「この人物はこういう性格の人」
と単純化・理想化し
明確なキャラクターを与え
あたかも人形遣いが
あやつり人形を動かすように
登場人物を描き出しました。
分かりやすいので読者は
感情移入しやすい利点があります。
反面
奥行き・陰影・立体観に欠けるため
一面的な理解になるリスクがあります。
(司馬文学ファンには情動的な方が
多いという指摘があります)
例えば
呉智英(1946-)氏は
『空海の風景』に言及して
「背広を着た空海」と述べました。
本書に戻りますと
「地層的」「多層的」な記述スタイルなので
例えば『楡家の人びと』に比べると
緊張感やテーマの一貫性は薄いかもしれません。
しかしこれは優劣の問題ではなく
『楡家の人びと』が
ベートーヴェン(1770-1827)のソナタ形式
あるいは
バッハ(1685-1750)のフーガ
に例えられるとするならば
「茂吉評伝四部作」は
ラモー(1683-1764)『ガヴォットと変奏』
あるいはクラシック音楽(バロック音楽)以前の
ルネサンス期の組曲
に例えられるかもしれません。
一般に若い頃の読者は前者が良く
加齢とともに後者が良くなってくる
ように思います。
従って、私は
『楡家の人びと』が北杜夫文学の最高峰と
考えていますが、それと同じくらい
「茂吉評伝四部作」が好きな作品です。
前述した
北杜夫にとって父・斎藤茂吉が
「超えられない壁」
であったことを最初に指摘したのは
なだいなだ(1929-2013)
です。
『文藝別冊 北杜夫』(没後5年増補新版)
(河出書房新社 2016)所収の
なだいなだ「北杜夫と躁うつ病」(pp.56-61)
をお読みいただければ幸いです。
昆虫や博物学が好きだった
理系少年・北杜夫が
文学に目覚めたのは
父・茂吉の歌集を読んだことがきっかけです。
旧制中学(麻布中学)卒業から
旧制高校(松本高校)入学にかけての時期です。
ただ恐いばかりの父・茂吉を
文学者として崇拝するようになります。
しかし
自分も文学を志した以上
父・茂吉が「超えられない壁」として
立ち上はだかるという
ダブル・バインドあるいは
アンビヴァレンツ
な状況が生じてしまいます。
それを回避するために北杜夫は
トーマス・マン(1875-1955)に
頼ります。トーマス・マンによって
父・茂吉を越えようと
努力(死闘)することになります。
なだいなだによりますと
『楡家の人びと』の成功によって
ようやく北杜夫は父・茂吉を超えた
(少なくとも同格に並んだ)
という意識をもつようになります。
しかしそれが最初の躁病の契機
となります。
突如カラコルム登山隊に参加し
『白きたおやかな峰』を書きますが
文学的には失敗作となります。
北杜夫自身があれは
「高級エンターテインメントに過ぎない」
と述べるようになります。
なだいなだによれば
『白きたおやかな峰』は
北杜夫版の『魔の山』であり
トーマス・マンを超えようとして
超えられなかった結果となります。
その焦りが躁病の再発になったと
なだいなだは結論ずけています。
確かに
三島由紀夫(1925-1970)が正しく
指摘したように、文法的には
『白きたおやかなる峰』(文語)か
『白いたおやかな峰』(口語)の
どちらかになるべきです。
その折衷である
『白きたおやかな峰』が
書名ですが
内容も前半がマンボウ調
後半が純文学調となりました。
私は
茂吉の歌集『白き山』(最後から二番目)
に対する思い入れから
『白き‥』に固執したのではないか
と考えています。
北杜夫は
自分が躁うつ病であることを公表し
何度かのうつ期と躁期を体験します。
躁期の状態(躁病)が亢進した
一因については前述の通り
自分も精神科医・作家である
なだいなだが指摘した通りです。
北杜夫の生涯を振り返りますと
『楡家の人びと』の後
『輝ける碧き空の下で』が
長さの点では上回りましたが
質的には超えることができませんでした。
エンターテインメントでは
『怪盗ジバゴ』が空前絶後の傑作と
私は考えています。この作品を執筆時
ずっと軽躁状態だった由です。
緊張感とリズムと迫力があります。
(北杜夫にはめずらしく性的な
描写も点状ながら見られます)
では結局
北杜夫は
文学的に「超えられない壁」だった
父・斎藤茂吉を超えたのでしょうか?
超えられなかったのでしょうか?
どちらでもないと思います。
そもそも短歌と小説という
異なる分野が活躍の舞台ですから
ライオンとトラのどちらが強いか
という問いと同じです。
優劣を比較することじたいが
あまり意味はなく
問題設定が間違っていたとも言えます。
しかしそれは
第三者(読者)が客観的に見て
言えることであって
当事者(北杜夫)にとっては
たいへん苦しんだことであろうと
推察することができます。
躁うつ病は「内因性」の精神疾患とされ
具体的には「遺伝子」によって規定され
あるいはその遺伝子の発現を調節する
「転写因子」によって規定される
と思われます。
しかし同時に
生育歴であったり人的環境であったり
という「エピジェネティック」
(遺伝子に書かれていない)な要因も
躁うつ病の発症やその時期・その程度に
影響を与えていると思います。
その意味で前述の
なだいなだの考察はさすがです。
従って
「茂吉評伝四部作」は
北杜夫にとって(死ぬ前に)
書かなければならない作品
であったと言えます。
どのような記述スタイルであるにせよ
父・斎藤茂吉と「向き合う」ことは
文学者としても息子としても
避けることができない運命的な作業
(標語的に申し上げれば
良い意味・深い意味でのスティグマ)
だったと思われます。
単行本の発行順に記せば
『青年茂吉』1991年6月
『壮年茂吉』1993年7月
『茂吉彷徨』1996年3月
『茂吉晩年』1998年3月
となります。1927年5月生まれの
北杜夫ですから四部作の最後
つまり本書が上梓されたとき
満年齢で70歳10月だったが分かります。
斎藤茂吉が亡くなったとき
満年齢で70歳9月でした。
おおまかに申し上げれば
北杜夫は
父・茂吉が亡くなったのと同じ年齢で
父・茂吉の評伝を書き終えたことになります。
「書かなければならなかった」
(書くまでは死ねなかった)
と言えるかもしれません。
「茂吉評伝四部作」の後
随筆などは別として
まとまった作品の執筆はありません。
1999年1月「茂吉評伝四部作」で
大佛次郎賞を受賞し
それから12年後に亡くなります。
その意味でも
「茂吉評伝四部作」は
北杜夫のライフワークでした。
「父の死も遠い遥かなものになった。
その夢を見ることも絶えてない。
私自身すでに老衰の身となった。
この日頃、なぜか思い出すのは
若き日に読んだ『赤光』の歌どもである。」
(本書 P.292)
‥と本書の末尾で
北杜夫は書いています。
そして4首の歌が引用されています。
どの歌かは
ご自分で本書をお読みになって
いただければ誠に幸いです。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
¥1,100¥1,100 税込
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
¥1,100¥1,100 税込
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥94¥94 税込
ポイント: 1pt
(1%)
配送料 ¥257 6月8日-9日にお届け
発送元: 古本倶楽部【午前9時までのご注文は当日発送】【通常24時間以内発送】 販売者: 古本倶楽部【午前9時までのご注文は当日発送】【通常24時間以内発送】
¥94¥94 税込
ポイント: 1pt
(1%)
配送料 ¥257 6月8日-9日にお届け
発送元: 古本倶楽部【午前9時までのご注文は当日発送】【通常24時間以内発送】
販売者: 古本倶楽部【午前9時までのご注文は当日発送】【通常24時間以内発送】
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
茂吉晩年: 「白き山」「つきかげ」時代 (岩波現代文庫 文芸 30) 文庫 – 2001/4/16
北 杜夫
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,100","priceAmount":1100.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,100","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"Rm24mwObN%2FBhaDkfunIr%2FbEIXcozTk2dvtMkv1tky4vClTuy0fJCpswswk5Vq4dsCI%2FpPW8PG2MCUz0r4nsSJAMgXRA%2Bjax%2BhIL%2FVyDSjYYn3UWr2iIZDkS5zYfEF%2B5%2F","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥94","priceAmount":94.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"94","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"Rm24mwObN%2FBhaDkfunIr%2FbEIXcozTk2dHTNFSLO2U7mCWSIN5w8NcQ6fYdD%2B0xU2Mg5rdtyZKqMSTz5J8Ig1ZoEBTWUlRCJ1ZyDog%2Bsv%2FdDEPhlp%2BFxuTaMkRzNTlzpyVKWrTqeh7z4fRnDsWwzl7j9J31CNTKYx37vmTMhA1u0i7I%2Btu3xohRaHsCab2zzu","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
歌人の最後の輝きと衰えゆく姿を浮き彫り
- 本の長さ296ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2001/4/16
- ISBN-104006020309
- ISBN-13978-4006020309
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2001/4/16)
- 発売日 : 2001/4/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 296ページ
- ISBN-10 : 4006020309
- ISBN-13 : 978-4006020309
- Amazon 売れ筋ランキング: - 263,319位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.8つ
5つのうち4.8つ
8グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。